僕の祖父は、僕よりも僕の姉を可愛がった。祖父は、姉とはしょっちゅう買い物へ出かけたり散歩に出かけたりしていたけれど、たぶん僕と二人でどこかへ出かけた事は一度もなかったと思う。そして、僕は別にそれを気に止めたりはしなかった。何十歳の年齢差があろうと、たとえ家族であろうと、人と人とが気持ちよく交流するにはやはり波長のようなものが必要なのだと思う。
祖父は姉の話にはよく笑ったけれど、僕の話を聞いて笑った顔を見た記憶はない。時折、話をするのが面倒臭そうにも見えた。僕と姉が互いに小学生の頃からそうだったし、僕はある時期を境にして家族に心を閉ざすようになったから、その後はきっと、さらにどう接していいのかわからなくなったのだろう。
祖父は何ヶ月もの入院生活ののち、病院で死んだ。ほんの数年前の事だ。
亡くなる半年くらい前から痴ほうが進み、家族一人ひとりの区別ができなくなっていった。先に亡くなった祖母の事情も知らされないまま、いつか見舞いにきてくれると信じてひっそり死んでいった。それはやはり、どうしたって悲しい光景だった。
彼は祖母以外のほとんどの人間を順に忘れていった。僕の父の名前を忘れ、母の顔を忘れ、あれだけ可愛がっていた姉の存在を忘れた。存在を忘れるというのは大げさな言い方ではない。誰かが姉の話を持ち出してもからっぽの表情を浮かべ、しばらくしてから「それは誰だ」と問うのだ。きっと姉はそれなりに落ち込んだと思う。誰かに存在を忘れられるというのはつらい事だ。
いま思うと本当に不思議な事だけど、そんな中、祖父はなぜか最後の瞬間まで僕のことだけは認識した。きちんと僕を名前で呼び、整合性のある会話を試み、手を握ろうとした。
僕はその青く痩せた手を握り返し、何枚か写真を撮った。きっと僕には覚えている事はできないと思ったからだ。その手の細さや、骨の出っ張りや、肘の軽さを。祖父の町で暮らした夏休みの気怠さや、正月の喧噪や、夕立の匂いを。祖父が姉の記憶を失ってしまったように、僕もいずれそれらを遠くに押しやってしまうはずだ。それも、どこまでも無自覚のうちに。
仕事を終えて外へ出た時、ふと雨の匂いを感じて、そんな事を思い出した。でも雨なんて降らなかった。ただのひとしずくも。
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