特別な事のなにも起きない平凡な一日の記憶というのは、後から思い出すことが難しい。記憶のかたまりが削除されるのか、手の届きにくい所にしまわれるのか。もしかしたらランレングス方式に似た暗号化で圧縮されるのかもしれないな、とある時思った。退屈な日 * 3、遠足、退屈な日 * 22、といった感じ。記憶容量の節約になる。
昔、僕はよく大学をさぼって武庫川に行った。朝の8時に家のドアを開けた時にはこれから地学の授業を受けに行くつもりなのに、閉めた時には川に行こうと決めている。まるで目が覚めた時からそうするつもりだったみたいに。そんな日が月に何度かあった。
同じ実験班だったY君に、「僕は大学へ行こうという意思が弱いのではなく、大学へ行きたくないという意思が強いのだ」ときっぱりと真正面から言い訳した事があるけれど、言い訳が必要な行動というのが既に世間からずれている証拠だ。そして、その台詞もまた嘘だった。僕は別に大学へ行きたくなかったわけでもない。きっと皆が当たり前に持っている集中力や向上心がなかっただけだ。
今にして思い返してみれば、地学の授業はドイツ語の授業と並んで面白かったし、随分もったいない事をしていたのだろうと思う。しかしながら、それは結局「今にして思い返してみれば」言える事だ。当時の僕には大学の授業の価値はわからなかった。今の僕になら、授業の価値はわかるけれど、きっと内容がわからないだろう。皮肉な話だと思う。
川辺で適当な場所を見つけて座り、飛行機を眺めたり、本を読んだり、水面を滑る誰かのラジコンの動きを追ったりして半日を過ごすのが好きだった。将来何になりたいとも思わなかったし、何になれるとも思わなかった。周りの人間の振る舞いにも、その将来にもさして関心がなかった。
初夏のある日の朝、僕はいつものように川辺の石段に腰を下ろし、ふと「今日の事をしっかり記憶してみよう」と思った。この平坦でとりとめのない透明な一日に起きた出来事のすべてを、修学旅行の日のように、転校する前日のように、初めて葬儀に出た日のように、特別な二十四時間として強く心に留めておこう、と。
仰向けに寝転がって目を閉じてみると、瞼を通して光が複雑な色に分解された。暗黒の中に、シャボン玉が割れる直前のような色彩が一瞬踊る。やがて舞台の幕が開くようにして、混ざり合った音が耳に届き始める。遠くの橋の上で大型トラックがクラクションを鳴らしている。水鳥の群れがせわしなく会話しながら低空を旋回している。強い風が吹くと、まるで巨大な昆虫のように街路樹が葉を震わせて音を立てる。
ほんのわずかに意識の置きどころを変えると、まるで違った種類の音たちが存在している事に気がつく。それはとても不思議な感覚だった。オベラとクラシックとロックのコンサートが同時に行われていて、僕だけが、チャンネルを切り替えるように気の向くままに座席を移り変わる事ができるのだ。そしてそれらの音の裏側で、古い映写機の回転音のように、川の流れる単調な水音がずっと聞こえていた。
すべては嘘かもしれない、と僕は今でも時々思う。世界にはただ一本の川だけが流れていて、その水の流れが僕たちに夢を見させているのだ。クリスマスの夢や、戦争の夢や、地学の講義の夢や、飛行機の夢を。川の水はなんの責任も取らずに最後には拡散してしまう。だから僕たちは、誰にも、何も、問う事ができない。
僕は目を開けてもう一度世界を見た。そして十年ほどの時間が流れて、今の僕になった。残念ながら、なんでもない一日を記憶するという僕の試みは失敗に終わった。午後から授業に出席したかどうかも覚えていないし、夕食になにを食べたか、手がかりさえ見当たらない。僕にはただ、川辺に座って目を閉じていた時の記憶だけがある。
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