「……つまり、世界中が騙されているという事になるのね」
妻は、まるで古い時代の探偵助手のような口ぶりで満足げに声にしてから、そっとティーカップを口元に運んだ。昼下がりの台所には何か意味深い物語が始まる予兆もなければ、クライマックスに向かう気配もなかった。ただ我々がいて、ティーカップが並んでいた。なんとなく、彼女はその台詞をどうしても言ってみたかっただけという風にも見えた。

「林君に悪気はない、と信じたい」僕はかばうように言った。「でも彼が僕に対して、『Hedwig & The Angry InchのDVDを早く返せ。観ないならなおさら早く返せ』と言ってきている事は事実だし、僕には観た覚えがない、ましてや借りた覚えもない、というのも事実なんだ」
「でもあなたの本棚には、その林君の言うDVDが並んでいる」妻はまだ十分には納得がいかない様子だった。「なぜかしら?」確かに彼女の指摘した点は、今回の件を複雑にしている最も重要と思われるファクターだった。爪で何度か、ティーカップを規則的に叩く音。
「おそらく、誰かが僕を罠にかけようとしている」と僕は声をひそめて言う。彼女は数秒の間を置いて、直感的に最後までの道筋を理解した顔になる。そして「まさか」とちいさく声に出し、口元を左手で覆った。
「そうなんだ」僕は意を決して言葉を並べた。「林君は僕にDVDを貸したと言っている。早く返せと言っている。僕は観ていない。はっきりとした借りた覚えもない。しかし僕の本棚には林君が貸したというDVDと同じものが並んでいて、まるで何年もそこに置かれたままのように触られた形跡がない。重要なのはここなんだ。『何年も触られた形跡がない』ということ」
僕は狼狽した彼女が落ち着きを取り戻すまで、数秒間をおいて話を続けた。「冷静に考えてみて欲しい。コンテクストを追いかけるんだ。最終的に一番得をするのは誰だ? 誰かが嘘をついている。おそらく人生最大の嘘を。僕たちがほんの少し留守にしている間に、誰かが扉の色を塗り替えてしまったんだ。それで僕たちは混乱している」
「私は信じたくない」と彼女はか細い声で口にした。「そんなことって……、信じられない」

彼女が瞳を下に向けて泣き始めたので、僕はふたたび間を置いた。向かいの窓に揺れるカーテンに目をやり、かすかに風が吹いていることを確認した。僕は耳を澄ませる。目を閉じて、そこにオーケストラのちいさな重なりを聞く。ホルンが歌い、ティンパニが時間を刻む。コルネットが問いかけ、チェロが答える。そして、トロンボーンが響く。とても温かく。カーテンはまるでその優しさに甘えているようだった。