■2004年8月
遠くから微かに打ち上げ花火の音が聞こえる。その夜は静かな、とてもひっそりとした雨が降っていたんだけど、淀川の花火大会は中止にはならなかったみたいだ。いま僕の鼓膜を震わせた空気の振動は、いったい何秒前に現場の空中に轟いたものだろう。僕の隣には身軽な格好をした妻が歩いていて、その右腕には眠たげな様子の犬が抱きかかえられている。どこかで見つけてきた幸福のしるしみたいに。「帰りの電車、すごい人だったよ」、僕はゆっくりと揺れる彼女の横顔に視線を向けて言う。十八歳の頃から少しも変わっていないつるりとした耳が見える。「梅田から十三に向かって行列がずっと繋がっててさ、橋の上をどこまでも途切れずに」
「行きたかったな」とほんの少し俯いたまま彼女は答える。犬が気持ち良さそうに半分眼を閉じ、深く呼吸する。彼女の言葉がただの相づちなのか、本心からのものなのか、僕にはうまく汲み取れない。もしかしたら本心からの相づちなのかも。でも、少し寂しそうなその声は聞き覚えのある響きだ。似通った雰囲気の出来事を僕は知っている。また、いくつか連続した花火の破裂音。
つき合ってまだ間もない頃、彼女が仕事で随分と落ち込んだ事があって、二人で夜中に近所の公園まで散歩した事がある。彼女が仕事上でなにか致命的な失敗をしたわけではない。職場の人間関係のことだ。
彼女は当時高槻で一人暮らしを始めたばかりだった。僕の大学生活は、留年のおかげでかえって暇を持て余すものだったので、時間に余裕のある時はだいたい一緒にいるようにしていた。僕たちはその八月の夜、誰もいない公園のブランコに腰掛けて、ただただ長い時間が過ぎるのを待った。励ましの声でもかけるべきなのかと模索していたけれど、彼女が懸命に自分自身に問いかけている姿を見るにつれ、しだいに僕の言葉数は減り、最後には二人ともなにも喋らなくなった。僕らには、月の光の下でブランコに腰掛けて、ただ漠然とした時間が流れるのを待つ必要があった。僕はその宙に浮いた時間のなかで、彼女が頭のなかに思い描いている光景をあてもなく想像したり、明日の一限の授業で提出するレポートの内容を反芻したり、近くの家屋に繋がれた犬の鳴き声から勝手に性別を決めつけたりした。そして一人でブランコをこいだ。ブランコが往復し、座板の繋がれた鎖がぎい、ぎい、と音を立てるたびに、八月の夜が輪郭を失ってく。風は乾燥していて、街灯からは細く重なりあう羽音が断続的に聞こえた。
日付が変わる頃、僕がブランコに腰掛けたまま靴ひもを結んでいる時に、彼女は「帰ろっか」と言った。どこか遠くの草原で、ぴたりと風がやむ。十五分ほどの帰り道で、僕は夜の海が好きだという話をした。無人の防波堤から見る、完璧な夜の海。暗闇にはどこまでも果てがないように思えて、じっと見ていると自分の足場さえ不安定に感じられて、怖くて、それがとても好きなんだ、と僕は言った。
今夜の彼女の台詞は、僕にあの夜の質感を思い起こさせた。なにも話さなくても時間は過ぎていくのだという事をもう彼女は経験的に知っていて、今も、その静まった姿勢を僕にも促しているような感じ。機嫌が悪いのでもなく態度が横柄なのでもなく、言葉が余計に感じられる時がある。そういった心の持ちようが大切なときもある。往復するブランコと繋がれた犬と夜の海。
七歩進んでファストフード店の駐車場を過ぎるとき、その雑多な感情が意味を持ち始めるのを待たずに、まあいいや、と僕は思うことにする。そう、まあいい。ゴミ箱を空にする。雨が頬に当たって散らばる。風が肩にあたって広がる。
天候不良のせいで離陸コースが変わっていたため、家の近所でも、上空を飛ぶ旅客機の点滅灯がかなりの大きさで目に入る。轟音が近づくたびに、彼女に抱かれた眠たげな犬の耳をおまじない程度に左手で閉じてやる。犬が僕らに散歩をせがんだわけではない。僕らが、眠っていた彼を無理矢理引っ張り回しているのだ。
「火薬の匂いがする」と僕は言う。でもきっと、それは淀川花火大会のものではないだろう。風向きは正確に音のする方からこちらへ向かっていたけれど、いくらなんでも大阪から宝塚まででは距離があり過ぎる。届くのは極端に遅れた音ばかりで光のかけらだって見えない。「スパゲティ作るときのにんにくの匂いかも。なんか香ばしいし」と僕は付け足す。彼女は少し右を見てから、遠足の用意を二日前に済ませてしまうしっかりした小学生のような表情で、小さくうなずく。それからすこし笑う。優しく。ちょうど道路の向かいにはイタリア料理店が建っていて、絵本の世界から運ばれてきたような寓話的な橙色の照明が、そこで食事する人々を祝福するみたいに優しく照らしていた。「でもほんとうに花火の匂いかもしれないね」と彼女が口にする。そうかもしれないね、と僕は声に出さずに答える。並んだ影がまだしばらく揺れている。
■2004年5月
雲一つない快晴だった。僕たちを乗せた車は、自身のポテンシャルを十分に見せつけるように軽快に坂道を駆け上がる。車の通ったあとにはまっさらな真空ができて、一瞬の後には周囲から波のように押し寄せた風がその真空を埋め込み、洗い流し、なかったものにする。
「もうちょっとかな」とハンドルを握る彼女が言った。トンネルに入る。僕はそのとき助手席にいて、彼女の細い腕がジーンズに落とすくっきりとした影が、車の進行方向に応じていろいろな模様に波打つのをただじっと見ていた。それはある時には太ったとかげのような形をしていたし、ある時にはできそこないのマカロニのような形だった。急に視界が暗くなってその模様が見えなくなってから、トンネルという単語に意識が到達するまで、妙に時間がかかった。
「もうちょっとで、どこ?」と僕は尋ねる。走行音が独特に加工されて円筒内に響き騒々しかったので、助手席の窓を閉じる。まるで暗黒の地底世界に向かっているみたいな下り坂だ。空気の密度がなだらかに変わっていく錯覚。急に喉が渇く。僕は彼女が「地底世界」と答えることを期待する。でも彼女はあまりにも機嫌が良いから、カーオーディオに併せて小さく歌を口ずさんでいて僕の質問には答えない。女の子というのはそうした生き物なんだ。もしかしたらいま窓を閉めた時に、彼女の言葉まで外の気流に追いやってしまったのかもしれない。それともほんとうに空気の密度が変わってしまったのかもしれない。地底世界に近づく人間は声を出してはいけないという僕の知らないルールがあるのかもしれない。わからない。とにかく答えはない。
でも、隣に座った僕も機嫌が良いものだから、くだらない質問の深追いなんてしない。彼女の言葉どおりなら、とにかく時間が経てばわかることだ。今はただ、この収束に向かう様子の感じられない幸福な時間を楽しむべきなのかもしれない。ペットボトルのお茶に手を伸ばし、回したキャップを手のひらで遊ばせる。機嫌の良い女の子が運転する車で、晴れた日曜日にドライブに出かけるチャンスなんて、人生にそうそうあるものでもない。大抵のドライブは、天気が悪いか、女の子の機嫌が悪いか、その両方かだ。ここは蛍光ペンを引いておくといい。
繰り返す橙色の明暗に目が慣れはじめた頃、トンネルの向こうに新しい世界が広がる。瞬間、このコントラストをカメラで捉えるのは無理だな、と僕は思った。白と黒の境界を縁取った半円形の弧があっという間に僕たちの頭上を過ぎ去っていく。彼女はまぶしそうに目を細め、僕はもう一度サングラスをかける。それから彼女はちらりと右に目をやり、軽く口元を上げて「……私の分も、あれ、見ておいて」と口にする。
言われて運転席の窓に目をやると、ガードレールの向こう側に春の陽光を受けて乱反射する湖面が見下ろせた。湖は白にも金にも赤にも輝いていて、遠くへ目をやるにつれ反射する白の粒子の密度が高まり、やがて白銀の幅広い帯になる。遥か向こうには、作り手の意思を超越してしまった巨大なダムが沈黙している。なにかを塞き止めるために作られたのに、その塞き止めるべき何かを忘れてしまったのだ。僕はダムに個人的な黙祷をささげる。
それから僕の目は、シルエットになっている彼女の横顔に焦点を合わせる。そしてこの温かな場面がここにある事を、ただ思う。太陽が照り、風が木々を揺らせ、湖が輝く。ゆったりとしたカーブに沿ってハンドルが滑らかに左に回転する。十度とか十五度とか、それくらい。気がつけばCDの曲順が一周している。
「運転、代わらなくて平気?」と僕は尋ねた。家を出てからもうすぐ一時間になる。
「平気。それよりちゃんと見た?」、彼女は軽くこちらに目をやって、またすぐにフロントガラスの向こうに視線を戻す。「ちゃんと見たよ」と僕は答える。もっと印象深い意見を口にしようと思うけれど、うまい具合にはいかない。
「無理だったらかわるから。まだ体調万全って感じじゃないと思うし」と僕はもう一度念を押した。彼女はここ一週間ほど微熱が続いていて、普通に外を出歩けるようになったのがつい昨日の事なのだ。「出かけるって言ったの私なんだから」と彼女が言って笑う。それを聞いて僕はもう一度湖面に目を落とす。さっきとは違う角度から見るそれは微妙に色調を変え、落ち着いた深い緑に映えていた。時間と場所と流れている音楽とが、人の記憶に残る景色を決めているんだな、というような事を僕はあらためて考えた。その散り散りな発想に筋道を立てて考えはじめようとした時、前方には再び巨大なトンネルが迫ってきていた。「ところで、もうちょっとでどこに着くんだっけ」と僕はもう一度尋ねてみる。
■ふたたび2004年5月
店の前に用意されたベンチに腰掛けて犬と遊んでいると、しばらくして買い物袋をさげた彼女が戻ってきた。「栄養をとらなくちゃ」と言って彼女も対面に腰掛け、袋からアイスクリームを取り出した。街灯に照らされたその銘柄はいつもとは違うものみたいに見えた。彼女は母親におもちゃを買ってもらった子供のような顔になる。
犬が彼女の腕にしがみつこうとして足を滑らせ、それを見て僕たちは笑う。時刻は午後九時になろうとしていて、いつの間にか遠い花火の音も静まっていた。匂いもない。そもそも風がやんでいる。月はぼんやりと居場所を示す程度に暗雲を照らしていたけれど、それ以外に空に見えるものは何もなかった。少なくとも次の旅客機が滑走路を抜けるまでは。
「そういえば、最初にデートしたのって確か、宝塚の花火大会だったね」と僕は言う。そう、花火だ。その話の続きに起伏に富んだ面白い展開なんて持ち合わせていなかったから、口にしようか悩んだけれど、話しながら考えればいいやと思い直した。最初にデートしたのは確か、宝塚の花火大会だった。
■1995年8月
信じられないことに僕たちはその夜、十七歳だった。九年前だ。九年というのがどれくらいの期間かというのが想像しにくければ、ゆで卵を作ってみればいい。鍋に湯を沸かし、約十分間卵を茹でて、取り出す。次の卵を入れる。また十分間ほど茹でて取り出し、次の卵を入れる。待ち時間を使って、茹で終えた卵の殻を剥くのも良いかもしれない。これを四十七万回ほど繰り返せば九年が過ぎる。そんなくだらない事で換算しないでくれとあなたは思うかもしれないけど、僕の歩んできた十七歳から二十六歳の道のりは、だいたいにおいて四十七万個のゆで卵を作るのと大差ない歩みだったような気もする。
十七歳の彼女は浴衣を着て待ち合わせ場所に現れた。もちろん十七歳の僕がリクエストした。まだ卵を茹で始める前の僕だ。僕は持ち合わせていたありったけの言葉で彼女の浴衣姿を褒めた。駅から川沿いに向けてゆったりと進む群衆の中、慣れない雰囲気に最初のうちこそ二人ともいつもよりよそよそしかったけれど、僕が卵の最初のひとつを鍋に入れたのをきっかけにして会話は弾んだ。あとは十分後に取り出し、次の卵を入れるだけだ。辺りには必要以上に元気な若者や、学校の廊下ですれ違った事がある程度の同学年の人間や、子供に腕を引っ張られるどこかの父親の姿。川辺に着くと、僕たちは濃い緑色をした冷たい手すりにもたれかかって、暗い天上に区切りをつけるように次々と打ち上げられる火の玉を見つめた。それは赤であり、黄であり、青であると同時に白だった。小学生のころ担任の教師に、色とりどりの花火の中でも、技術的に紫はほかの色に比べて少し製造が難しいと聞いたような記憶があったけれど、それを聞いたとき僕はまず間違いなく黒の花火の方が難しいだろうなと思った。僕はそんなくだらない話を彼女にし、ランダムに照らされる彼女の横顔が柔らかく微笑むのを眺めた。
帰り道、人の群れの動きが落ちついた頃に僕たちは歩き始めた。駅までのわずかな距離で、彼女は「ごめん、目にゴミが入ったかもしれない」と言って、僕のとなりで地味な手品のように器用にコンタクト・レンズを外した。「花火が始まる前じゃなくて良かった」と僕は言う。彼女は涙目で頷き、コンタクト・レンズをケースにしまい終えてから、「くらくらしてくるからあんまり眼鏡好きじゃないんだけどね」という言葉に続けて「わ、眼鏡持ってきてない」と言った。漫画みたいな棒読みの台詞。浴衣姿だから普段使っている鞄を持ち合わせていなかったのだ。裸眼の彼女は二メートル先の人の顔もはっきりとは区別できない。僕は「じゃあ駅まで手をつなげばいい」と言って、生まれて初めて彼女の手を握った。ちいさくて柔らかい手だった。世界中の空気にゴミが舞っていればいい、とそのとき僕は思った。
■四十七万の後
「えーと……、そうだっけ」と彼女は返事をし、続けて「うん、花火行ったかも。たぶん」と言う。こんな時間に、スーパーマーケットの店先に並べられたベンチに腰掛けてアイスクリームを頬張る男女と子犬を見かけたら、まず間違いなく、初めてのデートを思い出して見解の相違を見出したばかりの夫婦だと考えていい。
「いや、ちょっと思い出しただけだから」と僕は拗ねて言う。それで花火の話は終わる。やっぱり話の展開なんて考える必要はなかった。僕はしょっちゅう力を入れるポイントを間違えて損をする。ベンチの足に手をかけるようにして後ろ足で立ち上がった犬が、僕のアイスクリームをかじっている。嘗めているのではなくかじっている。いろいろと大切なものが減っていく。「帰ろう。他のアイスがぬるくなっちゃう」と言い、僕は席を立った。いまさら賢そうな表情で身構え直した犬のリールを左手に持ち替えて、彼女から買い物袋を受け取る。歩き始めると右手には畑があって、微かにテレビの音が聞こえた。
「最近はもう体調悪くなったりしない?」と僕は尋ねる。振り返って僕を見上げた犬と、一直線に目が合った。うん、と彼女は頷き、それからわずかに間を置いて「あの浴衣、探したらまだ実家にあるかも」と言う。やっぱり覚えてるんじゃないか、と僕は犬に向かってシグナルを送った。犬は、僕の歩調にあわせるように少しずつペースを落とし、何も知らない顔で僕の隣を一緒に歩いている。どこかで見つけてきた幸福のしるしみたいに。
■トンネル
その夜僕は、嫌な夢を見る。トンネルはどこまでも続いていて、運転席には彼女はいなかった。助手席に座った僕の身体をシートベルトがしっかりと固定していた。前方には他にも何台かの車が走っていたけれど、それらの車内はどれも無人だという事が直感的にわかった。橙色をした天井両脇の灯は進むにつれ段階的に明度を失っていき、もはや周囲のすべてが闇に覆われるのは時間の問題だった。輪郭がなくなってしまう、と僕は思った。すべてが闇に覆われてしまえば、形あるものを区別することができなくなるだろう。次の瞬間、運転席には古い友達が座っていた。僕は彼の名前を呼ぼうとするのだけど、どうしても思い出せない。釣り糸が岩礁に引っかかってうまくリールを巻き取れないように、目に見えない場所でなにか不吉な作用が僕の行動を阻害していた。やはりトンネル内は徐々に暗くなっている。下り坂だ。僕の分もあれ、見ておいて、と古い友人が言う。声は発せられない。けれど唇がそのように動き、僕は空気の振動以外の信号で彼の意思を理解する。でも彼が見ておいてくれと頼んだ<あれ>が何を指す言葉なのか、僕にはわからない。あれって何だよ、と僕は彼に問いかける。それもやはり普通の音声としては響かない。伝達されたという感触が虚ろに残るだけだ。僕はその事に思い至ってぞっとする。空気の密度が変わっているのだ。ここでは僕の声は空気を震わせる事ができない。彼は質問に答える気はないようだった。答えるべきではない、と考えているのかもしれない。僕はそこで衝動的に、はっきりとした恐怖に襲われる。トンネルは片道だけの一車線になる。もう後戻りはできない。僕は彼に助けを求めようと思う。名前も思い出せない彼に。車をとめてくれないかな、と僕は彼に言う。暗すぎてシートベルトもうまく外せないんだ。けれどハンドルを握った彼は、まるで新車の調子を確かめるようにアクセルとブレーキを交互に踏みこみ、その感触に夢中になっている。僕の存在など完全に忘れてしまっている。僕だって彼の名前を思い出せないじゃないか、と僕は思う。圧倒的な加速度が僕の全身を座席に繋ぎ止めている。前方を走るトラックのタイヤが水しぶきを散らせる。あたりにはタイヤの半分ほどの高さまで水が張っていた。まるでそんなものは最初からそこにあったというように。彼はようやく口を開き、もうちょっとで地底世界だ、と言う。……地底世界? 彼がどんな表情でその言葉を口にしたのか、僕にはもうほとんど見えなかった。闇の濃度が静かな暴力のように淡々と上がっていく。輪郭が失われていく。……違う、と僕は思う。地底世界なんてない。彼は誤解している。この先にあるのはただの夜の海なんだ。真っ暗で果てがなくどこまでも深い夜の海だ。僕は彼にそれを教えなくてはいけない。なんとしても。彼はさらに強くアクセルを踏み込み、暗闇の中でうっすらと笑みを浮かべる。今度ははっきりとその表情が見える。それからもう一度、僕の分もあれ、見ておいて、と口にする。唐突にかちりという音がしてシートベルトが外れる。やがてすべての灯が落ちる。
■いつもの午前三時
声をあげながら目覚めるなんて、覚えている限り初めての出来事だった。僕は完全に混乱し、怯えていた。じっとしていても天井がゆっくりと右に回転しているように見えた。呼吸が乱れている。僕は数分間かけて、夢が夢であることを理解する。シートベルトはない。床を覆う水もなく、理不尽な加速度もない。身体だけがじっとりと汗ばんでいた。ちょうど午前三時だった。
僕は台所に行って蛇口をひねり、何杯か続けて水を飲んだ。それから腹が減っていることに気がついて鍋に水を張り、火にかけた。冷蔵庫から卵を一個取り出し、鍋に沈ませる。冷蔵庫の扉にはここ二ヶ月間の彼女の体重の変動が細かく記録されたシートが張られていた。それはある時には38キログラムにまで落ち込んでいたけど、最近になってようやく平均的な域に戻りつつあるようだった。僕は灯の消えた薄暗い台所に立ったままの姿勢で、その数字の羅列に目を凝らした。立ち上がったガスの炎だけが我慢強く居場所を主張している。僕は隣室の扉を開けて、眠っている彼女の姿を見た。奇妙な格好で犬が寄り添っている。僕はしばらくの間、ゆっくりと膨らんでは縮む犬の脇腹を眺め、ようやく本物の落ち着きを取り戻した。ここは僕の家で、彼女は僕の妻で、犬は僕らの犬だ。あるときには幸福のしるしだ。そしてこれはただの、いつもの午前三時だ。
僕は彼女の側まで行って腰を下ろし、起こしてしまわないようにそっと髪を撫でた。それから公平に、隣に眠るちいさな犬の髪も撫でた。どこからどこまでが髪なのかよくわからなかった。
しばらくして、僕は台所に戻って火を止めた。かちりという音が区切りの合図のように響く。その音を聞いて僕は、どうしてあの時シートベルトは外れたんだろう、と少しだけ考える。そしてもしあのまま外れなければ、と。茹であがった卵を流水で冷やし、熱いうちに殻を剥く。その時、ゆで卵を作るのはこれで最後だな、と僕は感じた。これからは違った形で時間を刻まなければいけない。卵の茹で時間は、人生を計る単位に用いるにはあまり適切なものではない。なにしろわかりにくい。でも、と僕は同時に思う。良いことだってあった。殻を剥き終えた卵は、廊下から差し込む僅かな光の下で、傷一つなくつるりとしている。四十七万回も繰り返せば、人はこんなにも綺麗に卵を剥くことができるようになるのだ。
僕はもう一度、開いたままの扉から隣室の彼女を見た。僕は彼女を優しく起こして、ねえ、僕はこんなにも綺麗に殻を剥くことができるんだ、と言いたかった。九年間かけて、時間や機会や大切なものを幾つも失いながら、それでも僕はこんなにも綺麗に卵の殻を剥けるようになったんだよ、と。でも、と僕は続けて言う。でも僕はこれから先、今までみたいに卵を茹で続けるわけにはいかない。なにしろゆで卵に関しては、もう僕は成し遂げてしまったから。十七歳の僕には信じられない事かもしれないけれど、これからは君たちを守らなくちゃいけない。君と、犬と、君のお腹のなかで眠っているちいさな新しい命を。夏に花火の上がるこの美しい世界を。アイスクリームが溶け出すより早く。ブランコが止まってしまう前に。そのために僕はトンネルから引き返してきたんだ。
「もうちょっとで、湖だね」と僕は声に出して言った。
※この文章は、647danの企画「リレーテキスト」に2004年8月に収められたものです。