めちゃくちゃな一週間が終わり、怒涛の一週間が始まろうとしている昨今、電車の中では毎日Echoを聴いている。僕は人前では、滅多な事でもない限りはファルセットもコルセットも披露しないけれど、一揃いのブラケットには馴染みがある。寝た方がいい。

 iTunes Matchを利用しはじめてiPhoneの容量が30GB近く空いたことは喜ばしいのだけど、時々発生する曲の重複現象や(iPhoneローカルとiCloudとで二曲カウントされて表示される)、「久しぶりにあの曲を聞こうか」と不意に思いついたときに、「……でも再生を押してからダウンロードが始まるんだよな」という躊躇いが気になってしまうので、時期が来たら解約しようと思う。そもそもそうした楽曲分を見越して大きめの容量のiPhoneを買ったのだから。

 今週に入っても、鞄の中に着替え一着分は必ず携帯するような状況が続いていて、八月が終わっていくという事実がなかなか信じられない。毎年決まって、明け方にホットコーヒーを飲みたくなっていることに気づいて季節の移ろいを覚える。

 こうして見返してみても、どこにも出掛けた形跡のない七月の日記。九割が仕事場の近くの風景。

 自室のiMacを操作していると、まるで制御できないほどにマウスカーソルの挙動が俊敏になっている事に気付き、よくよく確認してみると、Magic Trackpadが故障してマウスカーソルの挙動がまるで制御できていなかった。

 仕方がないので久しぶりにMagic Mouseを繋いだのだけど、指先が覚えていた通り、やっぱり重い。本体も重いしクリックも重い。持ち上げてみると、重心自体も前にかかり過ぎのような気がする。複雑な操作を要求しなければ、Mighty Mouseの方がずっと気持ち良くて、なかなか悩ましい。

 たしか1920年代半ば、マハトマ・ガンジーが遺した言葉のひとつに「弱い人ほど相手を許すことができない。あと、月曜日に徹夜をすると週末までずっと眠い」という名言があったと思うのだけど、今週は身をもってその教えを辿ることになった。
 状況に応じて時間を費やすのは仕方がないとしても、「この徹夜を終えたところで、問題の根本が解決するわけでもないもんな……」と考えながら徹夜をするのは、結構こたえる。そして、眠い人ほどまぶたを開けることができない。

 ようやく対人間として会話ができるようになったので、ちいさなピアニストである姪を携帯電話のアドレス帳に登録しようとした時に、ふと手がとまった。姓がわからない。
 仕方が無いので実家の和室で本人と向き合った際に、「……あの、中島でいい?」と、頼りない記憶をたぐりよせて尋ねても、彼女は歌も財布も忘れたカナリアのような表情を浮かべて子供部屋へ逃げてゆく。

 夕刻に帰宅してから、微熱を出して横になっている奥様に「知ってたらでいいんだけど、僕の姉の姓って何だっけ」と聞くと、「中西です」と即答された。じつに惜しい。

 午前十一時過ぎから、実家を訪れた。いつの間にか名古屋に暮らしている姉も子供を連れてきていて、僕の義理の兄であるところの旦那さんは中国にいるらしい。本人に国籍を確認したことはないけれど、おそらく仕事だろう。

 小学生になった姉の娘と会話をしていると、なにかの拍子にピアノの話になった。「いま何を弾いてるの?」と尋ねると「ブルクミュラーの『進歩』をはじめたとこ」と返事があった。奇遇だ。『進歩』と言えば、ちょうど僕も三年ほど前に諦めたばかりの曲なのだ。「……えーと、『清らかな小川』は?」と尋ねると「もう終わった」と続けて回答があった。こちらに関しては奇遇ではない。

 大人と会話するには疲れすぎていて、僕はマンションの廊下に面した狭い部屋に一人でいた。休日の昼下がりに学校から響くブラスバンドの練習の音に耳をすませながら、昔のように、窓枠や、大きな冷房機器や、味気のない天井を眺めていると、その部屋で過ごした二十歳前後の自分が何を考えていたのか、不意に指先に掴めそうな錯覚がある。けれどもちろん、手を伸ばしたりはしない。なにもかもが錯覚であることを証明する必要などない。
 リビングから聞こえる子供たちの笑い声に、遠い何かを重ねるようにして短い眠りを求めた。僕の部屋はもう僕の部屋ではなかったけれど、僕の部屋であった場所は、いつまでも僕の部屋であった場所だ。

 いよいよ来週から、比較的とんでもない日々が訪れるらしい。比較的と言いながら、何と比較しているかもわからない。けれど、月曜日に午前五時台の電車に乗る事と、水曜日まで大阪で宿が予約されている事だけは理解している。大阪で宿。塞翁が馬。

 実のところ、とりたてて現実逃避という気分でもないのだけれど、こういう時にはいつも以上に遊び心が働くようで、変なものがどんどん変になっていく。親にきちんと説明できないようなことが常に反社会性を帯びているわけではない、という事実が、ここでも見事に証明されている。

 いつもの公園でベンチに腰を下ろし、アイスコーヒーを飲みながら数えてみたら、足元に九頭の蝉が死んでいた。僕は口の中に放り込んだ最後の氷を噛み砕きながら、なんの脈略もなく、むかし祖母から「お盆に海に行ってはいけない」と聞かされたことを思い出した。

 木陰から太陽は見えなかったけれど、その輝きを受けた遠くに立ち並ぶマンションが、綺麗に並べられた砂糖菓子のように見えた。時計を見てようやくベンチから立ち上がったとき、足元には十頭の蝉が死んでいた。

 息子に「洗濯バサミってネズミの顔に似てると思わない?」と尋ねたら、「今日は仕事休みなの?」と返事があった。会話としては概ね成立している。

 四時間ほど強引に時間を確保して、比較的優先度の高いものを作った。試したいことが四つあって、二つ目までは手が届くところにある状態。豊かさの指標が「どれだけ遊べるか」だとしたら、有意義な時間という言葉の意味さえ変わりゆくような気がする。

 旨い焼き魚を出す居酒屋で昼ごはんを食べていると、レジの付近から「来週はお盆やすみを頂きますので」とその店のお母さんが常連客に告げている声が聞こえた。信じられない速さで時間が流れている。僕の体内暦はいまだ六月の半ばなので面食らったけれど(というのは嘘で、本当は魚を食らった)、確かにそんな時期が近づいているのだ。

 二者択一はよく耳にするけれど、ひとつの事柄から二つの道筋を描き出すことを一者択二とは言わないのだろうか。

「灯りの消えた雪の山小屋で、眠ってしまわないために四人の遭難者が順番に壁伝いに歩くゲームをしていると、四人目が歩き終えたとき、なぜか誰も居るはずのない最初の角に……」という怪談よりも、レジの付近から「来週はお盆やすみを頂きますので」と聞こえたときの方が遥かに衝撃を受ける。

 やや唐突に、松葉杖をついた小人の群れが組体操のリハーサルを始めたような音がベランダから聞こえ、気分転換に椅子から立ち上がった僕がそっとカーテンを開けたときには、そこには真夜中の雨が降っていた。ふと、翌朝までこの雨のことを記憶しておけるのは、このあたりには僕ひとりしかいないような錯覚を覚えた。

 窓際に座ってぼんやりしていると、すこしだけ昔のことを思い出した。最初に頭の中に浮かんだのは、いまから三、四年前、Googleマップのストリートビューで遊んでいたとき、福岡の岩永君の家が今でも八百屋を営んでいることを知ってなんとも微笑ましい気持ちになったことだ。……ちなみに、岩永君は小学校の卒業式のあとで行われた謝恩会で、こっそりビールを飲もうとしていたワルである。でもドラクエ3を貸してくれたから基本的には良い人だ。

 二十年以上前に暮らした遠い町の風景を父母に見せたらきっと喜ぶだろうと思い、あらためて実家のコンピュータで自慢げにストリートビューを見せると、やはり二人ともずいぶんと興奮した様子で次々とリクエストを受けた。なるほどな、と僕はそのとき感じ入った。景色を見るということは、記憶を温め直す行為に等しいのだ。

 僕の暮らしていたけやき通り近くの社宅はすっかりなくなって、今では茶色いマンションが幾つか立ち並んでいるみたいだ。そして僕がずっとメールの返事をさぼっている花野君と奥様のサイトを見ると、この世界はちゃんと続いているのだと感じる。ちゃんと続いていて、ちゃんと繋がっている。そしてどの大地にも等しく雨は降る。

 中学生の頃、TM NETWORKの『SELF CONTROL』の曲順が好きだった。とりわけ、カセットテープがB面に返ってからの「Time Passed Me By」→「Spanish Blue」→「Fool On The Planet」→「Here, There & Everywhere」と続く珠玉の名曲の並びを、夕方のバスに揺られながら聞いた日々の空気は、まるでメタルテープのように今でも劣化することなく脳裏に描くことができる。たぶんメタルテープってそういう特質なんじゃないの、くらいの曖昧な気持ちで書いているわけですが。

 中学一年生といえば、僕は福岡県福岡市から兵庫県宝塚市に戻ってきたばかりで、よくよく思い返してみればまともな友人は少なかったのかもしれない。今でもまともな友人は少ないけれど、いくらか違った意味で。
 同じマンションに住む友人の一人が、先に挙げた『SELF CONTROL』のコンパクトディスクを買って、僕は『human system』のコンパクトディスクを買ったのだった。これはこれで、名曲「RESISTANCE」が収録されているので良いアルバムだ。たとえイントロのダンスには抵抗感しか覚えないとしても。

 そうしたわけで、結果的に僕は『SELF CONTROL』をカセットテープで聞くことになり、決まってB面になるのを待ち遠しく思うようになるのだ。そしてまた、たとえば次の誕生日を迎えて、耳の奥のどこかでカチリと何かが切り替わる音が聞こえた瞬間に、そうした日々の情景を僕は思い出すのだろう。

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