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100311:0120
残業は、まぁ仕方がない。19時半に僕がコンピュータの電源を落とす段になって、「ところであの件だけど……」と、無茶な作業をふってもらっても、まぁたまには構わない。しかし、それが黙々と22時半まで続くのは困る。今日の僕には決定的に睡眠時間が足りないのです。四時間眠って十三時間労働って、ここは古代ローマですか。僕の足にはまっているこの鉄の輪はなんと呼びますか。 そんな事情で、何ヶ月も前から発売日をカレンダーに記入していたKANちゃんの『カンチガイもハナハダしい私の人生』を購入できず。iTunesではカットされている曲があるから物理媒体で買うしかなく、部屋で鉄の輪を引きずりながらずっとプレビューを聞いています。 コノコネコノコ 中学一年生の時に、僕はその子猫と出会った。小学生の頃から友人の中田さんという女の子が近所で拾った捨て猫だ。彼女は動物病院の娘なのに猫アレルギーだった。 僕の家族は皆そろって動物が好きだった。僕が生まれる前には和歌山で犬を飼っていたし、僕が小学校低学年の頃には、やはり大阪で猫を飼っていた。僕はあまり正確なところを知らないけれど、和歌山で飼っていた犬は、踏み切りで電車に轢かれて死んだらしい。大阪の猫はというと、あるとき急に体調を崩し、心配した僕の母に自転車で病院へ運ばれている途中、後部座席の荷台にくくりつけられたダンボール箱から逃げていなくなってしまった。箱の側面にある指を差し入れるための穴を、内側から爪で広げて無理やり抜け出したのだ。 中田さんと佐野君から譲り受けた子猫は、お腹だけが白く、他は黒と灰色の、ずいぶんいい加減な模様の雄だった。ちょうど、キャンバスに色を置く前にパレットに絵の具を重ねて、これからの方向を見定める時のような、雑然とした混ざり具合いだ。毛は柔らかく、目は凛としていた。わりと高い頻度で面白い冗談を述べそうな引き締まった口元をしていた。 一週間ほどが過ぎて、子猫はユキという名前になった。僕が名づけた。しばらくは「ユキ」と呼んでも近づいては来なかったけれど、代わりに、呼ばなくても勝手に近づいてきて、誰かの足元にその柔らかい頭を摺り寄せた。僕は中学生向けの簡単な本を読み、猫の視覚と味覚について学んだ。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 七時五分に目が覚めた。いつもより三十分近く遅い。なぜだ。自問自答のうちの自問だけで五分が経過したので、答えを探すことを諦めて僕は布団から出た。平日の僕には、三蔵法師のごとく向かわなければならない場所があったはず。引き出しの中から靴下のパズルを解き明かし、あまり愛着のない携帯電話をポケットに入れた。 ネクタイを選び終えて寝室を覗くと、妻も子供たちもまだ寝息を立てて深く眠っていた。娘はクリボーにやられた瞬間のマリオのような姿勢をしていたし、息子はクリボーにやられた瞬間のルイージのような姿勢をしていた。妻はわりと普通の姿勢をしていた。布団の端からは、季節外れの鯉のぼりのように犬の尻尾がだらしなく揺れるのが見えた。眺めていたところで今日の天気がわかるわけでもない。 カバンに適当な文庫本を二冊放り込むと、傷ついた兵士のように靴箱にもたれて固く冷たい靴を履いた。「……俺は必ず帰ってくる。必ず、だ……」と一人で前線の兵士ごっこを楽しむと、僕は静かに玄関の鍵をかけて、駅までの道を歩き始めた。七時二十五分、いつもの時間だ。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ユキがしっかりした足取りで歩くようになると、彼が誤って危ない場所に近づかないよう、僕たちは家中に様々な工夫をした。けれど、彼の驚くべき跳躍力の前に、そうした細工はあまり意味を為さなかった。もし猫が飛びたいと思えば、その猫は飛ぶのだ。どんな困難があっても。 二年も経つと、ユキは細いベランダの手すりの上を、危なげなく器用に歩くようになった。四階のその手すりから、眼下を横切る片道一車線の道路に目をやり、行き交う自家用車と肌色のバスを眺めるのが昼下がりの彼の日課だった。ゴルフ場の向こうには甲山がのぞいている。日が暮れると、彼はリビングのチェアのうち決まったひとつを占領し、揃えられた前肢に顎を乗せて目を閉じた。そして、家族の誰かが帰宅した時には、ようやく何か面白いことが始まるのだと確信したみたいに、一声だけ鳴いて玄関に駆け寄った。 中学一年生の頃。夏休みのある日、僕は突発的にベランダでスズメを捕まえてみたくなり、古典的な罠を作ってベランダの床に米粒を撒いた事がある。紐を引っ張ればザルが覆いかぶさる王道のトラップだ。昼下がりに猫と一緒にソファに腰掛け、窓越しにスズメを待つ中学生は、絵画的題材としては興味深いものがあったけれど、狩猟的な期待も知能的な魅力もなかった。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 電車を降りると、仕事場の近くのコンビニエンスストアに立ち寄った。目的ははっきりしている。コーヒーとプリンを購入するのだ。その二つの食品は、阪急十三駅を過ぎた辺りから、有無を言わせぬ圧倒的な存在感で、僕の脳裏を静かに、そして完全に支配していた。 僕がテーブルに置いたプリンにバーコード・リーダーを当てたのは、一年くらい前からこの店で顔を見かける女性の店員だった。その仕事は相当手早くて、ミスもない。料金を読み上げた後にずいぶんしっかりと相手の目を確認する表情が印象的だった。 店内の椅子に腰掛けてしばらくの間、僕は意識的にぼうっとしてみた。時折「ぼうっ」と声に出すのがコツだ。目を閉じると、さっきの傷跡が鮮明にまぶたの裏に浮かんだ。回転する硬貨。音の周期性。僕は落ち着きを取り戻すために、プリンのフタを開けて状況を整理する事にした。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 僕の姉がピアノ教室を開き、本格的にピアノを教えるようになると、家には小学生から高校生まで、様々な子供たちが出入りするようになった。ちょうど同じマンションで開かれていた別の女性のピアノ教室が閉じられた時期だったため、姉はいきなり二十人近くの生徒を抱える事になったらしい。彼女は忙しくてかなわないと口にしていたけれど、誰がどう見てもその忙しさを楽しんでいる様子だった。 ユキはもう堂々とした成猫で、電子レンジで一周半温められたハムを、地上で並ぶもののないゴージャスな食品だと考えているようだった。彼は毎日ブラウン管テレビの上に寝転んで体を温め、日の光を浴びて目一杯ふくらんだバスタオルにくるまった。時々、誰かが扉を閉め忘れたトイレに好奇心のままに忍び込んで、誤ってウォシュレットのボタンを押してしまい、この世の終わりのような声で鳴いた。そしてまた、以前と変わらず、冬が訪れるとカイロをくわえて家中を走り回った。そのたびに僕は「わからない。わからないからカイロを返しなさい」と彼を叱った。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 金曜日の仕事場では、とても退屈な時間が続いた。まるで誰かが大昔に敷いたレールを山腹から町の入り口まで順に辿って、時折、併設された看板にルビを振っていくような単調な作業だ。漢字が読めれば猿にも出来る。前後左右でキーボードを叩く音が規則的にカタカタと聞こえた。自動運転の空調が風向きを変え、誰もいない机の上に置かれたティッシュペーパーが小刻みに揺れていた。 そういえば高校三年生の頃、予備校で化学の授業を受けながら、左手の長袖に通したヘッドフォンでこっそり音楽を聞いていた事があったな、と僕は思い出した。どうしてそれほどまでに音楽が聞きたかったのか、今では思い出せない。でも、左耳から微かに聞こえていた曲のイメージは簡単に浮かぶ。ジム・モリソンが難解な詩をつぶやき、ビリー・ジョエルが魔法の旋律を紡いでいる。ジョージ・ハリソンが決して万人受けのしない曲を奏で、スライ & ザ・ファミリー・ストーンが大地を揺らせている。僕は教室にいて、一向に上昇する気配のない化学の点数を見つめている。折れ目のない折れ線グラフを。 午後八時を回った頃に仕事場を抜けると、今朝立ち寄ったコンビニエンスストアを外から眺めた。当然、彼女は居ない。レジの近くで朝から変わらないのは、電子レンジと募金箱くらいだ。僕は何気なく扉をまたぐと、ヨーグレットを買って足早に店を出た。僕は、もし僕がノーベル賞の選考委員なら明治製菓に平和賞を授与しても良いと考えるくらいにヨーグレットを好んでいるけれど、見知っている範囲ではおそらく僕は選考委員ではない。ヨーグレットの素晴らしい点は、それが一粒ずつ薬のように機能的な包装に納められており、否応なしに子供心をくすぐる点である。なぜ大人の僕がくすぐられているのかに関してはここでは述べない。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ある風の強い日の夕方に、思いがけない事故が起きた。ピアノ教室の生徒のひとりが、家の扉をとても強い勢いで閉めてしまったのが原因だった。僕はそのとき家に居なかったけれど、もし居ればとても嫌な声を耳にしただろうと思う。わずかに開いていた扉の隙間から、ちょうどユキが外へ出ようとしていたところで、彼の尻尾は根元近くで扉に挟まれ、ちぎれてしまったのだ。 ユキは洗濯機の上に設置された乾燥機の中に逃げ込んで、恐ろしい声で唸り、震えていた。僕が近づくと、これまでに見たことのない顔で怒り、激しい威嚇の声を上げた。母は僕の両手を強引に引っ張り、「やめなさい、引っかかれて傷だらけになるわ」と言った。僕はその手を振り解き、「引っかかれるより尻尾がちぎれる方が痛いに決まってる」と強い口調で言い返した。比較の仕方が根本的に間違っているな、と自分でも思った。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 梅田で阪急電車に乗り換え、混雑した車内でヘッドフォンをつけた。再生ボタンを押すとまさかの小沢健二が流れたので、違和感を覚えて曲をスキップすると今度はシェリル・クロウ、その次にTM NETWORKが流れた。もうなんでもいい。 夜の流れの中に次々と消えていく町の灯を見て、僕は人々の暮らしを想像した。犬の散歩をしている中年の男性。自転車を押して狭い橋を渡ろうとする中学生。美容院の二階には、仕事場に居残ってマネキン相手にカットの練習をしている美容師たちが見えた。ガラス窓には、難しい顔をして『1974』を聞いている僕の姿が見えた。確かにそれは名曲には違いなかった。そういえば中学生の頃、塾で隣合わせになった林君と初めて交わした会話は、受講時間後に彼の発した「……ところで、TMのファンなの?」という一言だったのを思い出す。僕がその時、的確に「I wanna see the fantasy.」と答えたか否かは覚えていない。 階段を上がり、改札を抜けると、僕はコートのポケットに手を突っ込んで足早に歩き始めた。小さな公園を横切り、誰もいない夜の工事現場の横を通り過ぎた。まだ明かりの灯っている焼肉店の駐車場で、若い男女が声を上げていた。一人の男がヘルメットを前後逆さまにかぶり、二人の女がそれを見て笑っている。そんなに面白いだろうか、と僕は思った。僕には彼のユーモアをまっとうに評価することは困難だった。しかしながら、少なくとも僕に言えるのは、いまこの瞬間周辺に世界中の釘がまとめて降ってきたならば、彼だけがかろうじて生き残るだろうという事実だ。 マンションの階段を上がる頃になって、「……僕の方が先に林君に話しかけたんだっけ」と気になった。ディティールが思い出せない。けれどディティールにもヘルメットの向きにも関係なく、確実に冬の寒さは近づいてきていた。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 尻尾の切れたユキは、しばらくの間は納得がいかない様子だったけれど、病気を併発することもなく順調に回復した。そして僕たちがその姿に慣れるのと同じだけの時間を要して、徐々に新しい歩き方にも慣れていった。 ユキが癌にかかっていることを知らされたのは、晴れた土曜日の朝だった。僕の母が妻にメールを送って伝えたのだ。目が覚めると、妻は僕に携帯電話の液晶画面を向けていた。今にして思えば、彼女はそこに書かれた文章を音として読み上げたくなかったのかもしれない。僕は話の流れがうまく飲み込めず、そのメールを何度か読み返した。幸福な時間の流れが約束されていたはずの土曜日の朝は、今では色合いを失ってどこかへ沈んでいった。「顎のガンでした」とそこには書いてある。余命一ヶ月。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 年が明けてしばらくは、何事もなく平穏に過ぎた。町はわざとらしい飾りつけをやめ、落ち着きを取り戻し始めていた。会社を出る時にマフラーを忘れた僕は、首元の寒さを忘れるためにタケカワユキヒデがなぜカタカナ表記なのかをずっと考えていた。 何千回と触れた実家のドアノブを握った時に、この扉が彼の尻尾をちぎったんだ、と僕は思った。今ではその事実に動揺するほどの衝撃はない。ただ、それはちょうど静電気のように、忘れかけた頃に決まって皮膚を伝わるひとつの信号として機能していた。 僕はそこにある自分の手をじっと見つめた。その手の甲に伝えられた温もりを意識する。こぼれ落ちた硬貨を優しく拾い上げる彼女の左手を意識する。そこには傷跡がある。強烈な血の匂い。暗闇の奥で二つの瞳が光っている。誰かが僕の両手を引き戻そうとする。けれど僕は自らの意思でその暗闇に手を伸ばす。そこには激しい恐怖と憎悪がある。僕の腕にはいつの間にか真新しい傷口が開いている。僕は自分の身体に記された痛みの予感を受け入れる。鏡の中の僕は既に答えを見つけている。回転する硬貨の残影。傷口から血が流れ出すまでには少し時間がかかる。表面はゆっくりとカラメルソースに覆われていく。 ユキは、身体中を内側から突き刺す容赦ない痛みに耐えるように、小さな唸り声で苦痛を漏らし続けていた。僕は自分の両目から涙がこぼれていることを自覚した。それから、撫で続けていた彼の身体にゆっくりと顔をうずめた。そこには十七年前に嗅いだ甘いミルクの匂いはなかったけれど、代わりにもっと親密な匂いがした。 両親は何かを言い残して、日付が変わる頃に眠った。僕は午前四時過ぎに実家を出た。薄暗い駐輪場で、原付のミラーに映った僕の両目はひどく充血していた。世界中の誰もが眠っているような灰色の世界で、ささやかな異議を唱えるように遠くで一度だけカラスが鳴く。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 「どうしてユウちゃん、今日は一緒に寝てくれないんやろう」とアカネは言った。 宣言通りに眠ってしまった息子の横で、僕は目を閉じ、隣の布団に眠る娘の手を握っていた。そのとき唐突に、「ユウちゃんは、アカネがお母さんになるまで生きてるの?」と彼女は質問した。不意を突かれた僕は少し驚き、目を開けて彼女の横顔を見た。そこには真面目に眼を閉じて早く眠ろうとしている五歳の女の子がいる。 |
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