火曜日の午前十時を回った頃。窓側の座席であればどこでもコンセントが使えるものだと思い込んでいた僕は、ずいぶん長い時間、遠藤周作も呆れるくらいに沈黙した黒い画面をぼんやりと眺めていた。
 窓越しにはどこまでも田園と曇天が広がっている。暇つぶしに赤い屋根を数えようと目線を走らせるたび、川端康成も匙を投げるほどの長くて暗いトンネルが訪れて、全てが振り出しに戻る。先ほど注文したアイスコーヒーの透明なカップと同様に、僕の心は本来の居場所を失ったまま静かに揺れていた。

 乗車券の確認が終わったあたりでヘッドフォンをつけ、再生ボタンをタップするとドアーズが演奏を始めた。現状を表現するにはそれなりにマッチしているように思えたけれど、こんなのを聞きながら上京したらろくな死に方をしない気がしたので、あらためてスライ&ザ・ファミリーストーンを選びなおした。魂の深部から心を震わせるようなリズムが響いてきても踊り出さずに済んだのは、ここが新幹線の車内であり、僕が一般常識を備えた紳士だからだろう。

 昨日は何ヶ月かぶりに、自分の血液を見た。あれほどしっかりと色のついた液体が、今も自分の体を流れているとは信じがたいものがある。人間ドックとムカデ人間の類似性を説明されたときの息子が、ちょうどその時の僕と似た大きさの驚きを受けたであろうと推察される。

 県境の長いトンネルを抜けると、相変わらず田園と曇天が広がっていた。音楽はいつしかビリー・ホリデイに移り、カップの中にあった氷はひっそりとただの水に戻っていた。数えることのできた赤い屋根は七つ。

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