中学生の頃、TM NETWORKの『SELF CONTROL』の曲順が好きだった。とりわけ、カセットテープがB面に返ってからの「Time Passed Me By」→「Spanish Blue」→「Fool On The Planet」→「Here, There & Everywhere」と続く珠玉の名曲の並びを、夕方のバスに揺られながら聞いた日々の空気は、まるでメタルテープのように今でも劣化することなく脳裏に描くことができる。たぶんメタルテープってそういう特質なんじゃないの、くらいの曖昧な気持ちで書いているわけですが。

 中学一年生といえば、僕は福岡県福岡市から兵庫県宝塚市に戻ってきたばかりで、よくよく思い返してみればまともな友人は少なかったのかもしれない。今でもまともな友人は少ないけれど、いくらか違った意味で。
 同じマンションに住む友人の一人が、先に挙げた『SELF CONTROL』のコンパクトディスクを買って、僕は『human system』のコンパクトディスクを買ったのだった。これはこれで、名曲「RESISTANCE」が収録されているので良いアルバムだ。たとえイントロのダンスには抵抗感しか覚えないとしても。

 そうしたわけで、結果的に僕は『SELF CONTROL』をカセットテープで聞くことになり、決まってB面になるのを待ち遠しく思うようになるのだ。そしてまた、たとえば次の誕生日を迎えて、耳の奥のどこかでカチリと何かが切り替わる音が聞こえた瞬間に、そうした日々の情景を僕は思い出すのだろう。

 春に国立科学博物館を訪れた際、特別展として催されていた古来の医学を紹介する展示で、「うさぎのはしか退治」と題された絵を見たのを思い出した。ずいぶんコミカルで勇ましいうさぎが、タイトル通り「はしか」をやっつける絵。

 なぜ思い出したかといえば、昨日、和服を着たうさぎを見たからである。それが夢の中の出来事であったか否かはさほど大きな問題ではない。幾分遠回しに、寝不足と疲労をアピールすることが主目的だからだ。

 四時間睡眠が板についてくると、昼休みに公園のベンチで休んでいるわずか十五分ほどの間に、様々な思念が心の水面を揺らすことに気がつく。たとえば「四時間睡眠が板についてくる」という日本語を冷静に読み返した際にひっかかる奇妙さだとか、「白羽の矢が座った」みたいな使い道のない言葉の切れ端だとか、まぁそういうことだけど。つまり、おおむね平常運転ということ。

 気がついたらアイスチョコモナカを食べている。一つのブロックを口に放り込むたびに、モナカ、モナコ、モニカ、ハイヒールモモコ、の順に平等に思考をめぐらせている。

 やや唐突に、村上君のところで秋田道夫さんとの会話を納めたPodcastが公開されはじめた。

 僕は秋田道夫さんのことを、顔も文章もずいぶん前から拝見、拝読しているので勝手に見知った人のように思えていたのだけど、当然ながらそれまでになかった、声帯の伝えるパーソナリティというのはやはり見過ごせない(聞き流せない)ものがある。「……ああ、想像していたよりもずっと少年のような、やんちゃな声だったんだな」と面白がりながら聞いた。と思ったらそのとき喋っているのは村上君の方だった。どうりで、聞き慣れた邪悪の塊に片栗粉でとろみをつけたような声だ。終始一貫してエクソシスト2の予告編のナレーションのような声だ。

 何ヶ月かぶりにTSUTAYAヘ行った奥様が、嬉々として映画『グーニーズ』を借りてきた。時代錯誤ぶりを茶化したいところだけど、僕はまだその映画を見たことがない。

 本当はギターを「好きになれない」のではなく、単にうまくならない

 ものごとを言葉に置き換える理由は何だろう、と考えてみると、誰かと共有するためか、あるいは未来へ残すためだと思える。ここで未来の自分も「誰か」に含めるならば、「共有するため」と言い切ってしまっても良いのかもしれない。
 
 もしも対象が、たとえば言葉よりも音楽として表現する方が誰かと共有しやすく、本質を汚さずに残しやすいと思えたならば、そのことに気がついた誰かが鍵盤に指を置くだろう。写真も、彫刻も、たぶんそんな風にして僕の生きるこの瞬間まで紡がれてきたのだ。

 ここまでの段落から、今日、僕の家の玄関で杉尾さんからもらったクワガタの雌が三週間ぶりに動いたことを推察できた人は、ずいぶん察しが良い。なにしろ僕さえも、動くと思っていなかったのだから。
 そもそも、杉尾さんから丸い容器で成虫を受け取ったその日から、ただの一度も地表にいる姿を見たことがなく、手渡された容器に詰められていたマットは、定年退職した叔父がレシピも読まずにはじめて作った高野豆腐のように硬かった。仮に地面の下に潜っているのだとしたら、二度と出られるはずがない。あまねく節足動物的な死あるのみ。

 ところが、昼下がりに玄関で、三番のサビまでお経を唱えてから厳かに土を掘り起こしたところ、そこに表れた黒い背中は、わりと元気にむくむくと動いた。うわ動いた、って言った。そして掘り起こした瞬間に、その生き物(スアレスと名付けた)は僕の指を力強く噛んだ。

 御堂筋線で列車を待つ間、ずいぶん多くの若者たちがホームに居合わせていることに気がついた。いくら休日とはいえ、人々の年齢のバランス、その偏りに違和感がある。浴衣を着ているわけでもないし、なにかコンサートグッズを手にしているようにも見えない。けれども、おしなべて二十代中盤くらいの、多くは男女の組である。

 車両が動き始めてしばし経過した頃、僕の右斜め前に立っていた金髪の男女と、僕を挟んで正対する位置に立っていた幾らか大人しめなファッションの女性グループが、同時に水野真紀の話をし始めたことで僕の混乱は激しさを増した。揺れる車両の中で、僕の脳裏には何度も水野真紀の笑顔がループする。記憶のループ。記憶のプール。@autoreleasepool……自動解放プールと児童開放プールはどちらがより安全と言えるのか……、仮にレストランが閉店したら水野真紀はどうなってしまうのか。他人が言うほどには水野真紀と水野美紀を間違えることはないけれど、そんな冷静な意見を口にしても場が盛り上がるはずもなく、我々を乗せた列車は闇を穿つトンネルをただひたすらに北上する。

 激しさを増す鼓動と反比例するように、やがて列車は少しずつ速度を弱めていった。まるで眠りに落ちていく意識のように。もしくは、眠りに落ちていく意識が時折書き記す、誰かに伝え残す価値がゼロの文章のように。

 二日前の夜、布団に横になったまま眠れずにいた娘から、「なぜ眠ると夢を見るの?」と質問を受けた。「なぜ起きている時には、夢を見ていないと言えるの?」と尋ね返そうかと思ったけれど、話し終わる前に夢の世界に行ってしまう気がしたので、とりあえず記憶の箱を抱えて橋をわたる小人の話をした。

 出版当初から「ユーザーイリュージョン」と「神々の沈黙」をずっと読みたくて我慢しているのだけど、ふと振り返って自室の本棚の中板が美しく歪んでいるのを目にすると、何らかのイリュージョンが起きるまで沈黙するしかなくなる。

 わりと長い期間検討した結果、技術系の電子書籍はKindleを選ぶことにした。というか、べつに決心したわけでもないけれど、自然とそう成りつつある。心情的にはiBooksで揃えたいところだけど、こうあからさまに品揃えに差があると、その魅力から目を背けることは難しい。

 それはそれとして、やはり電子書籍というのは便利なようでいて、身体感覚とちぐはぐで、いつまでも馴染めない感覚もある。「馴染めない」という言葉が本当にしっくりくるほど、書籍との間の交流みたいなものを感じ取る事ができない。
 せめてこう、iPadで電子書籍を横開きにした時には、残っているページ数に応じてiPadの重心が左右に変動したりすると、「本を読んでいる」という感覚を身体が信じると思うんだけど、そこまでするなら紙の書籍にiPadを貼付けた方が早い。

 なにか書籍を読んでいて、どこか過去の段落にあった記述を、あいまいな記憶で辿ってふと読み返したいと思ったとき、やはり紙の書籍でそれを試みる方が数倍速い。目的の記述を以前目にしたときに親指の腹で抑えていたページの厚みだとか、そこから今のページに辿り着くまでにページをめくる音を何回耳にしたとか、そういった無意識下で働くアナログなセンサが、思った以上にたくさん機能しているのだろうか。

 この四月から、とくに脈絡もなくはじまった「毎月一枚ずつGREAT3のアルバムを買い足していく運動」は、七月の半ばに至って五枚目のアルバム『May and December』に辿り着いた。微妙に計算が合わないけれど、なんでも計算できる世界がお好みなら、両足の裏にそろばんを括り付けて飽きるまで逆立ちの練習でもすればいい。
 
 せっかく村上君が貸してくれた『Without Onion』も、1998年リリース版のCDには収録されていなかった四曲(『I.Y.O.B.S.O.S』含む!)が惜しくて、結局iTunes Storeで買い直した。登校中のベックが宿題を忘れた言い訳を延々と考えているような、独特な緊張感と深淵に迫った趣のある曲で、ややもすると六年間くらい延々と再生し続けてしまう気がする。

 わりと頻繁にアルバイト店員の代わりゆく馴染みのコーヒー屋で、「豆は挽かずに、真空パックは要らないです」と注文したマンデリンが、粉々に砕かれたうえ「しんかい6500」の収集物かと見紛うほど美しく圧縮されて手渡されたとき、あなたは夕立のあとに映える虹のように美しい笑みを浮かべられますか。

 はじめて風という字を目にしたとき、まるで誰かの顔のように見えたことを今でも覚えている。という一文から短編小説がはじまりそうな気配を感じるけれど、一方で、その短編小説が全体として四行くらいで終わることも容易に想像できる。

 愛用のレコーダDR-05のファームウェアが更新されて、今更ながらオーバーダビング、リバーブ等の目立つ機能向上が果たされた。素晴らしい。思わずうっとりして溜め息を多重録音してリバーブかけたくなる。そしたらきっとベイダー卿みたいになる。眠くなる。なにを書いているのかわからなくて、私は今にも眠くなっていく。

「哺乳類の祖先は夜行性だったおかげで、巨大な恐竜の目を盗んで生き延びることができた」みたいな説を聞くけれど、あれはたぶん間違いだと思う。僕の洞察では、おそらく哺乳類は昔から残業を山のように抱えていたので、湖面に月影の揺れる深夜にしかブログの更新ができなかったのだ。
 帰宅する電車の中で、オスプレイ、押すプレイ、雄プレイ、御スプレー、といったきらびやかな単語たちの並びでぐるりと結ばれた数珠が、孫悟空の頭にはめられた緊箍児のように僕の思考を取り巻いていた。疲れていないといえば嘘になるし、疲れているといえば報告になる。

 人はどこから来てどこへ向かうのか、という根源的な問いに対する唯一の具体的な回答は「布団から来て布団に向かう」なのだけど、うっすらと狐色に焦げ目がついた回答用紙に適量のマーガリンを塗って食べてしまいそうなくらい眠い。

 眠い。仮に今、堅く閉ざされた天岩戸の外側からアメノウズメが賑やかに舞う音が聞こえてきたとしても、完全に無視して暗闇の洞窟で寝返りを打つほど眠い。こんな状態が続くと、あなたの眠りをサポートみたいなことを言われてもあまり有用でなく、むしろ朝のトーストにジャムを塗るのを手伝ってくれた方がありがたい。

 思い出した。これは数日前に気がついたのだけど、ジャムをスプーンで塗り広げようとするのではなく、スプーンは静止させて左手に持ったトーストの方を動かすと、まるで自分が試作段階のロボットになったような気がして楽しい。まぁ会社員の八割は、試作段階のロボットのようなものだけれど(唐突に鋭いことを言えた気になっているロボット)。

 五月六月のテキストをまとめました。

 二ヶ月間のうち、当サイトに文書を記したのは全四日間のみ。すごいですね。片手で数えられますね。

 以前読んだ「数」の成り立ちを考察した本に、「……そもそも上空を飛んでいる二羽の鳥と、地面に転がっている二つの林檎について、そこに『二』と抽象される共通の概念を人類はどのように見出したのか」と指摘される一文があったのだけど、「……あるいは四回だけ更新される個人サイトと、四時間だけ睡眠をとる生活の間にも、何らかの関連性はあるのだろうか」と述べた疑問文の末尾に、仰々しくクエスチョンマークを与える打鍵も無駄なほどに、その二点には関連性しかない。ここでエクスクラメーションマーク。

これまでのあらすじ
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